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風光る 脳腫瘍闘病記

故郷

夕方の6時。松山空港に着いた私を出迎えてくれたのは母親の「エホバの証人」友達のT家だった。「愛ちゃん大丈夫?大変だったわね」と初対面の私に対していかにも子供の頃から知ってますみたいな話し方をしてきた。

T家の車で私と時を同じくして引越しをした母親と共に新しい家へと向かった。車窓から見る風景はとても懐かしかった。

しばらくして家に到着。もちろん、強制退院だった為、家はまだバリアフリーではなかった。私は実にそこで実兄と15年ぶりに再会した。久しぶりに見た兄は少しふっくらしており年齢より老けて見えた。あの頃の私達は人一人死んでもおかしくない家庭環境で育った為、兄とは喧嘩別れしたままだったのだ。

姉は自殺し、私は車イス。兄だけが健康だった。羨ましかった。

車イスになってなければ一生会う事も話す事もなかっただろう。でも今はお互い大人になった。昔の事は水に流して私は「久しぶり・・」と言った。兄も戸惑いながらも何か一言いっていたが聞き取れなかった。

T家とウチは近所だった為、私の為にT家が夕食を準備してくれていた。「エホバの証人」じゃなければ、まともないい人達なのだ。

私が、家に帰って一番困った事がトイレだった。尿の方はバルーンを入れていた為心配する事はなかったのだが問題はお通じだった。でも家のトイレは狭すぎて車イスすら入らない。入ったとしてもドアも閉まらないし手すりも何も付いてない。なすすべが私にはなかった。この時ほど自分の排泄機能を失くして欲しいと思った事はない。

松山の病院で受け入れてくれる所を探すまでこの家で過さなければならなかった。家が狭い為、車イスでの移動も自由に出来なかった。トイレにいけない私は一番辛い失禁を何度もするハメになった。母親に処理してくれとは言えない私はお風呂場までプッシュアップしながらズリズリと床を惨めな思いをしながら進んだ。

歩けないという事がいかに大変か改めて認識して、私は泣きながら自分の汚物を処理した。悔しくてたまらなかった。家族とは縁を切るつもりだった。姉が自殺しても一人で暮らしていける自信が私にはあった。でも歩けなくなり松山に帰らざるおえなくなった私。自分の運命を憎んだ。

ラッキーな事に3日目にして入院先が決まった。B病院だ。T家にお願いしてB病院へ・・ここで過した3ヶ月間が少し私の心の傷を癒してくれる事になった・・。


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